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  • 執筆者の写真meisafujishiro

日々の道具

 写真を撮るためのカメラ。原稿を書くためのノートPC。それを除いて、私が最も使っている道具といえば、刈り込み鋏だ。家にいる時は、雨天でなければ、毎日使っている。

 雑草がたくましい沖縄では、一週間家を留守にするだけで、すぐに空き地のように雑草が背を伸ばしてしまう。当初は刈り込み機を使って作業をしていた。モーターのけたたましい騒音のため、近所に申し訳なく感じながら、えいやあと二時間ほど冬でも汗をたっぷり流しての作業だった。

 伸ばしておいては刈り、また伸ばしておいては刈る。その繰り返し。作業は仕方ない労働であり、ちっとも楽しくなかった。草や虫たちの悲鳴が聞こえるようで、逃げるに逃げれない者を追い詰めているような心苦しさもあった。

 刈り込み鋏は剪定用にもともと持っていた。ある日、なんとなくそれを庭の草刈りに使ってみた。オイルとモーターで動く刈り込み機とは違い、それは遅々とした作業であり、大きな鋏を使い続けることに不慣れなせいもあって、結構疲れるのだった。遅いし、疲れる。非効率的だと投げ出される方法なのだが、私はそこに感じるものがあった。

 刈り払い機では立ち仕事になるのだが、刈り込み鋏では地面に膝間付く。つまり草に近づくのだ。それによって草の様子が良く見える。当たり前のことだが、大切な気づきは、案外こういう当たり前の中に潜んでいることは常なることだろう。

 その存在に気付かなかった小さな花や、葉や茎の造形の美しさ、太陽に光を受けての陰影。それらは奇跡のように目の前にあり、私は息をのむようにして魅入ってしまったのだ。

 その時から私の庭への態度は変わった。少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、以前の私は庭の支配者であったが、今では同居人である。庭を自分の思い通りに服従させるのではなく、管理人のように全体のバランスを保つ意識で動いている。根こそぎ奪うような手入れではなく、葉の上の方だけ刈り込む美容師のような気持ちである。

 朝起きると、まだ朝露の残る庭を裸足で歩きながら、ざっと観察してみる。おのずとどの辺りに鋏を入れたらいいか自分なりに分かる。作業は5分ほどである。太陽が高くなり、朝露が乾いた頃に仕事の手を休めるついでに、刈り込み鋏を手にして庭へ出る。シャキシャキとリズム良く鋏を動かす。わずか3畳ほどを刈り込むだけで日々の作業としては十分なのだ。

 小まめに刈り込む作業を繰り返していると、草も頭が良く、上へではなく横へと伸びようとして、結果緑の密度が高くなり、緑の絨毯を敷いたような庭へと姿を変えたのだ。細い草葉がひょろりひょろりと伸びていた以前の庭とは全く違った庭になった。それは、ちょっとした驚きであった。

 草の知恵に驚くと共に、私という人間と無数の草花たちが、まぎれもなく影響を及ぼしあっていることに、小さくはない感動を覚える。それを日々5分味わっているのは、人の言葉で表すなら、贅沢と言うしかないのではないか。

 また、手を動かしていると、どうでもいい思考パターンから抜けられるのもいい。頭を働かせず、手を働かせよ。そんな庭の声が聞こえるようでもある。


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